街角の看板から、書店の平積みされた小説の表紙に至るまで、今の日本社会で猫の姿を見かけない日はない。もはや単なる愛玩動物の枠を超え、ひとつの巨大な経済圏を形成していると言っても過言ではないだろう。関西大学の宮本勝浩名誉教授が発表した最新の試算によれば、2026年に猫が日本経済にもたらす効果、いわゆる「ネコノミクス」の規模はおよそ3兆円(約188億ドル)に達するという。これは、2025年の大阪・関西万博に匹敵するほどの途方もない経済波及効果だ。
この熱狂の背景には、日本社会が抱える構造的な変化が透けて見える。かつては犬を飼う家庭が多かったが、少子高齢化や単身世帯の増加、そして都市部の住宅事情の悪化に伴い、散歩の手間が省けて鳴き声も少ない猫に軍配が上がるようになった。日本ペットフード協会の2025年の調査では、飼育されている猫の数は約880万匹にのぼり、犬の約680万匹を大きく引き離している。15歳未満の子どもの数よりもペットの数が多いこの国で、猫は孤独を癒やし、精神的な支えとなる重要な伴侶としての地位を確立したのだ。猫一匹の生涯にかかる費用は平均して約180万円と言われているが、プレミアムフードや高度な獣医療への支出を惜しまない飼い主たちの並々ならぬ愛情が、この巨大市場をがっちりと下支えしている。
「肉球の力」に吸い寄せられる人々
この圧倒的な集客力を肌で感じられる場所がある。東京の北東部に位置する下町、谷中銀座だ。自ら「猫の街」を標榜するこのレトロな商店街には、北米やヨーロッパ、オーストラリアからやってきた外国人観光客が絶え間なく押し寄せる。彼らのお目当ては、猫を象ったスイーツやオリジナルの猫柄の印鑑、さらには招き猫のマグネットや箸といった土産物だ。
ただ皮肉なことに、肝心の猫たちの姿はあまり見かけない。「昔はそこら中を歩き回って、よその家にも勝手に入り込んでいたんですけどね。最近は猛暑のせいか、涼しい家の中から出てこないんですよ」。そう語るのは、猫雑貨店「ねこあくしょん」を営み、自身も複数の猫と暮らす山下由美子さんだ。寺町ゆえに元々野良猫が集まりやすかったというこの街の歴史的背景が、現在のしたたかな観光資源へと姿を変えている。
文学から政界まで浸透する猫の魔力
猫の持つマーケティング上の破壊力は、出版やエンターテインメントの世界でも猛威を振るっている。夏目漱石が『吾輩は猫である』で飼い猫の視点から人間社会を風刺して以来、猫と日本文学の蜜月は1世紀以上にわたって続いている。村上春樹のシュールな世界観の中に登場する猫たちや、有川浩の『旅猫リポート』、平出隆の『猫の客』など、枚挙にいとまがない。今や出版界では、内容にまったく関係がなくても、表紙に猫のイラストを載せるだけで売上が跳ね上がるという一種の魔法のツールとして消費されている面すらある。
ネコノミクスの波及範囲は多岐にわたる。田代島のような「猫島」を巡る観光ブームや、全国各地に点在する猫カフェはもちろんのこと、地方鉄道を廃線の危機から救った和歌山電鐵の「たま駅長」の伝説はあまりにも有名だ。彼女一匹で11億円以上の観光収入を生み出したとされる。大手コンビニエンスストアがこぞって肉球型スイーツや限定グッズを投入し続けるのも、そこに確実な需要が存在するからだ。
さらには、この猫への偏愛ぶりは日本の政界や皇室にまで及んでいる。天皇皇后両陛下が保護猫を飼育されていることは広く知られているし、高市早苗首相が公の場で「犬よりも猫派」だと公言するほど、猫は社会のあらゆる階層に深く根を下ろしている。
日本人がこれほどまでに猫に惹かれるのは、単なる愛らしさ以上の何かを彼らに投影しているからだろう。狭い都会の片隅で、付かず離れずの距離感を保ちながらそっと寄り添ってくれるその存在感。猫たちは今や、疲弊した現代社会の隙間を埋める柔らかいクッションでありながら、同時に数兆円規模のマネーを動かすしたたかな経済の牽引役でもある。このしなやかで底知れぬ魅力に、私たちは当分抗うことができそうにない。